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アクバルは建設事業を盛んに行った

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治世の初期につくられた建造物ではデリーにある父フマーユーンの霊廟(フマーユーン廟)が名高い。帝国の宮殿はデリーと並ぶ北インドの首府であるアーグラに置かれていたが、アクバルは15世紀にロディー朝によって建設された旧城砦を1565年に赤砂岩で築かれたアーグラ城塞に改修し、この城市には「アクバルの町」を意味するアクバラーバードの名が与えられた。また、1569年には帰依するチシュティー教団の神秘主義者(スーフィー)の影響を受けてアーグラの近郊に周囲11kmに及ぶ市域をもった新都、ファテープル・シークリー(「勝利の都」)の建設を始め、1574年から都がラホールに移った1584年までの間、10年間にわたって居城とした。1598年までアクバルの都であったラホールの城砦もアクバルの造営になるものを基礎としている。
宗教的には、中央アジア系・イラン系のムスリム(イスラム教徒)のみならず、土着のムスリムやヒンドゥー教徒が数多い帝国の君主として、アクバルはイスラム教のみならず、ポルトガル人がインドで宣教するキリスト教に至るまで、多様な宗教に対して関心を寄せていたといわれる。とくに神秘主義から強い影響を受けつつ諸宗教を総合的に尊重した彼自身の宗教姿勢はアクバルの側近アブルファズルがアクバルの命によって執筆した年代記『アクバル・ナーマ』に「ディーネ・イラーヒー(神の宗教)」という名前で書き残されている。文化面では、アクバルは、父の流浪生活の最中に生まれ、中央アジア出身の武人に囲まれて育ったため、幼少時に文字を学んだ経験がなく無学であったが、サファヴィー朝の宮廷で絵の手ほどきをうけたこともあり、芸術を愛好し学問を保護した。アブルファズルを始め側近には優れた文化人が集い、サンスクリットからペルシア語への翻訳事業も行われた。

治世の末期にはデカン地方に進出し、アフマドナガル朝と戦って版図を南に大きく広げたが、息子サーリムとは仲が悪く、アクバルは後継者問題で失意の晩年を送ることとなった。1605年、アクバルがアーグラで死ぬと、サーリムが第4代皇帝ジャハーンギールとして即位した。アクバルの遺骸はアーグラ近郊のシカンドラに運ばれて葬られ、その地にアクバル廟が建設された。

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2009年04月25日 17:14に投稿されたエントリーのページです。

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